しかし現在も、例えば北海道の市町村名の大半はアイヌ語に由来する。また本州の東北地方北部にもアイヌ語の地名が数多く存在することが、アイヌ語地名研究の権威である山田秀三(やまだひでぞう)らの研究によって明らかになっている。 ひらいずみ)、馬渕(まべち、まぶち)、目屋、綾里(りょうり)、和井内(わいない)秋田県浅見内(あさみない)川、阿仁(あに)、阿仁合(あにあい)、天内(あまない)、板見内(いたみない)、打当内(うっとない)、笑内(おかしない)、小猿部川(おさるべ)、生保内(おぼない)、毛馬内(けまない)、斉内川(さいない)、狙半内川(さるはんない)、鹿内(しかない)、下山内(しも-さんない)、岱野(?, たいの)、田子内(たごない、tapkop)、辰子潟(たつこがた、田沢湖、tapkop)、達子森(たっこもり、tapkop)、土目内(どめね)、十和田(とわだ)、西馬音内(にしもない)、羽見内(はみない)、比立内(ひたちない)、比内(ひない)、桧木内(ひのきない)、堀見内(ほりみない)、マンタラメ、役内(やくない)、鑓見内(やりみない)、米内(よない)宮城県歌津(うたつ)、達居森(たっこもり、tapkop)、登米(とよま)、保呂内福島県猪苗代(いなわしろ)、竜子山(tapkop), 宮沢賢治の『なめとこ山の熊』にもクマ送りの儀式が記述されてます。ここでは、逆に熊を取ろうとした主人公がクマに殺されてしまい、人送りになってしまった。あらすじなめとこ山の麓に小十郎という熊撃ちの名人がいた。小十郎には家族を養えるほどの畑はなく[1]、山林は政府のものとなって伐採が禁じられ、里では職にありつけず、熊を撃つしか家族を養う道がなかった。小十郎は、一家七人を養うために、熊を撃ちまくったが、本当は熊に申し訳ない気持ちでいっぱいであった。彼は熊撃ちの時は自信に満ちた名人だったが、殺した熊に言い訳を聞かせ、次に生まれる時には熊になるなよと熊に語りかける。そして、熊の肝と皮を担いで帰る時はみるかげもなく、ぐんなりした風で山を降りてゆく。 なめとこ山の熊にとって、撃ち殺されるのはもちろん迷惑だったが、熊はそんな小十郎に一種の親近感を抱き、いつも高いところから眺めていた。小十郎は時おり、熊の言葉さえ分かる気さえした。彼が、なめとこ山で道に迷って、熊の親子に出会った時に、小熊と母熊の会話を理解してしまい、胸がいっぱいになって、こっそり戻った時があった。山では気高い小十郎も、なめとこ山の熊が肝と毛皮という商品に変わってしまい、町の金物屋に売りに行くときはみじめだった。小十郎の毛皮は、ずるい荒物屋によって2枚で2円という安値がつけられる。生活がかかっている小十郎は、それが不当に安いことを分かっていて、仕方なく手放してしまうのであった。ある日、小十郎は、木に登っている熊に出会い、鉄砲を構えた。 鉄砲をつきつけられた熊は、観念し、木から下りると、小十郎に自分が殺されなければいけない理由を尋ねた。小十郎は、最後には安く買い叩かれてしまう熊の末路を教え、気の毒に思っていることを告げた。さらに(本当は熊撃ちをやめて)草の実でも食べて死ぬならそれでも良いような気がする、と本音を漏らした。すると熊は、二年間し残した仕事を済ませたら、二年目に小十郎の家の前で、死んでいてやるから、胆でも皮でもあげるからと約束した。小十郎はそれを聞くと切なくなって、見逃してやった。ところが二年後、熊は小十郎の家にやって来て、約束どおり死んでしまった。小十郎は熊を見て、思わず拝むようにした。一月、小十郎は母に、「水に入る(猟を始める儀式)」が嫌になったと弱音をはいた。それから白沢から峰を越えたところで猟を始めた。するとまもなく不意打ちで熊が現れ、小十郎は撃ち損じて熊に襲われてしまった。小十郎は、お前を殺すつもりはなかったという声を聞き、青い火を見て死を悟り、熊どもゆるせと心でつぶやいた。三日後、小十郎のために数多くの熊が集い、盛大な弔いが行われている場面で物語が終わる。小十郎のモデル:賢治が盛岡高等農林学校研究生時代の土性調査などで、「なめとこ山」を含む現在の花巻市西方の山地を跋渉した時期に接したマタギが小十郎のモデルではないかと考えられてきた。1990年に牛崎敏也が、当時この地区で唯一マタギの家であった松橋和三郎(1852 - 1930)とその息子勝治(1893 - 1968)であるという説を発表し、その後もそれを補強する研究が行われている。, ふるーとさん  コメントありがとうございます。苗字とかは、地名からとった方がかなり多いですから、そういったアイヌ語地名の出身だったことは十分考えられます。インターネットのサイトから引用してますが、実際車で走ってるとこの何倍ものアイヌ語地名が見つかります。私があちらこちらで目にした小字名載ってないようです。, 本州・東北に残るアイヌ語地名−アイヌ人の痕跡? )、上米内(かみよない)、金田一、久慈 (? ッペと読みます。これはアイヌ語地名です。安渡は今の 大湊になります。これら弘前藩の九浦、そして盛岡藩の 七湊が蝦夷地とつながる出入り口になっていたわけです。 2.蝦夷地の動向と北奥地域-弘前 … 世界2500言語 消滅危機——「日本は8言語対象 方言も独立言語」ユネスコ」『朝日新聞』2009年2月20日付夕刊、第3版、第1面。, 寺島良安『倭漢三才圖會』(復刻版)吉川弘文館、1906年(明治39年)、213-214頁, UNESCO Atlas of the World's Languages in Danger, http://glottolog.org/resource/languoid/id/ainu1252, Endangered languages in Northeast Asia/ report, ジョン・バチェラー訳 アイヌ語新約聖書(H19.5cm W13cm/横浜 1897年刊), “Taxonomic Studies of the Family Pleustidae (Crustacea: Amphipoda: Gammaridea) from Coastal Waters of Northern Japan. 東北北部にアイヌ語地名が多くのこっており、また北海道と同じ遺物が出る以上、東北地方にアイヌ語を話す人聞が居住していたことは否定出来ず、「蝦夷もある時代まではアイヌ語を使用していた」という考えを表明する 2014 4月27日続き 新潟県※下越地方(北越方言圏)は東北方言の地域に分類される 新発田(しばた)、胎内(たいない)、沼垂(ぬったり)、粟島(粟生、粟穂、行政名:粟島浦村)、大平(おおひら)、釜谷(かまや)、カムラ、等北東北3県、その他各地に点在長内、折壁(おりかべ)、鬼壁(おにかべ)、折戸 (? 佐藤和美 この文書は21世紀研究会編『地名の世界地図』(文藝春秋文春新書2001年12月10日発行第14刷)で紹介されているアイヌ語地名等について、間違い・疑問点を指摘するものである。 地名としてアイヌ語をたどると沖縄に達することから、現在では東北・北海道を除きアイヌ語で説明がつくからアイヌ語という断定をする人は少数派のようです。 )、釜谷、釜屋、蒲谷、鎌谷(かまや)、目名、目名川、〜岱、〜台(臺)、〜平(たい、tay、「森」), http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13108753683, http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E8%AA%9E. ゆえに、アイヌ語地名に縄文言葉が色濃く残っている可能性が高い。 以下、リンク 言葉化石・アイヌ語地名は「縄文の地名」 門田英成(アイヌ地名懇親会) より引用。-----<前略> (2)調査「アイヌ語地名」 ①「平」地名(平が崖) 北海道の地名の約8割はアイヌ語に関係するという。【地名を巡る北海道 hoppaライブラリー】 北海道以外のアイヌ語由来の地名集 北海道の由来 「最長片道切符の旅」にみる地名と名字のあれこれ 北海道の地名 … )、夏油(げとう)、花露辺(けろべ)、佐比内、死骨崎(しこつざき、唐丹町)、タイマグラ、達谷(たっこく, tapkop)、立根(たっこん、tapkop)、束稲山(たばしね)、土淵(つちぶち)、唐丹(とうに)、遠野 (とぬぷ)、泊里(とまり)、西根(にしね)、似田貝、似内(にたない)、沼宮内(ぬまくない)、日頃市(ひころいち)、平泉(? そして、このアイヌ語の地名は、北海道のほかにサハリン(昔の樺太)、千島列島、それに本州の東北地方にもあることがわかっているんだ。 このような地名のなかで、ヌプカウシヌプリやクマネシリといった山の名はアイヌ語の発音をカタカナで残したものなんだ。 The genus, NPO法人「地球ことば村・世界言語博物館」による2010年1月のことばのサロン シリーズ「よみがえることばたち」7「アイヌに生まれて」, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=アイヌ語&oldid=80205886, 中国語を経由、オットに変化した後、漢方薬としての陰茎の婉曲表現の臍がつきオットセイとなって入ったものであると言われている。, いろいろ-うわさ 私(主語)-について-自分-で-遠く-自分の-心-揺らす-繰り返し, 大修館書店1981年刊、講座言語第六巻『世界の言語』413-445pp 田村すゞ子「アイヌ語」. アイヌ語由来の地名も、もとの発音がだんだんなまってよばれたり、近年は全然関係もない緑町とか富浦とかのような平凡な地名に改名されたりすることが多い。 北海道ばかりでなく本州の東北地方にも濃密にアイヌ語地名が残っている。 本州に残るアイヌ語地名として思い浮かぶのはどこでしょう?. アイヌ語地名が本州以南にもあるか(地名の序言)参照。. 歴史。アイヌ民族~歴史と文化。文化・歴史。アイヌ文化を学ぶ。アイヌに関する研究、アイヌ語やアイヌ文化の振興、アイヌの伝統等に関する普及啓発等が目的。イベント情報、関連団体の紹介。 )、気仙 (? アイヌ(アイヌ語: Ainu / Aynu, ロシア語: Айны )は、もともと北海道のみならず、北は樺太、北東の千島列島、南は本州北部にまたがる地域に居住していた民族である 。. 北海道のアイヌ語地名から、近い言葉を本州に見出す。北東北に集中している。その言葉はアイヌ語由来か。北東北の現地に出かける。アイヌ語の意味から近い沢と山を探すのだ。山はアイヌ語の意味から、三角形やお椀型を見つける。 別に掲げた怪しいアイヌ語説の四万十川に関して原典がこれであろうか、と(^^ゞさんが見つけて下さった。図書館から借りてきて一読したので、紹介しておく。 寺田寅彦 全随筆集2(岩波)p560~567 「土佐の地名」より: 土佐の地名 また、明治以降になると、本州からの移住者が北海道へたくさん渡ってきて、そのことを示す地名が北海道の各地で見られることや、アイヌ語に由来する地名に漢字を当てはめた地名が作られたことなども、北海道の歴史の特徴をあらわすものです。 ご存じの通り、北海道の市町村名はアイヌ語から来るものが圧倒的に多く、それが北海道らしさを形成する要因の一つとなっています。 が、今回はあえて「アイヌ語ではない市町村名」にスポットを当ててみました。 調べてみると、なかなか楽しい由来が盛りだくさんでしたよ。 アイヌ語地名について調べたり考えていくためには、その音にあったアイヌ語の単語を当てはめるだけでは不十分です。 それぞれの単語の意味はもちろん、名詞や動詞の関係などの文法を正確につかんでおき、さらには実際に地形の特徴やその土地の伝承なども調べていくことが求められます。 さて、これらの「ナイ」「ベツ」地名が多く見つかり、且つ、それらの地名がアイヌ語起源であろうと確実視されるのは、南限が宮城県北部、秋田・山形県の県境あたりと考えられています。. 現在、アイヌ民族の権利回復やアイヌ文化の認知を推進するという運動のなかでアイヌ語地名が語られている。地名からアイヌの生活や文化を学ぶということも先住民族としてのアイヌの存在を意識して行なわれている。アイヌ語地名は二〇〇一年に「次の世代へ引き 従ってアイヌ地名を研究することは,日 本 地名成立時の発想法を知ることにもつながろう。なお [本の範囲については,い わゆる大和民族が早くから その勢カー下に置いていた本州,四 国,九 州にとどめ, アイヌの範囲については近世まで支配していた北海 秋田のマタギの本を読んで、マタギの人たちの言葉にもアイヌ語が残ってるのと、クマ送りのような儀式が行われていた記述がありました。アイヌ人のイヨマンテはよく知られてますね。北東北には、本当にアイヌ語が一杯残ってますね。それから南の地域はわずかには有りますが、こじつけが濃くなってくるように思います。各県の地名出てますが、実際に車で縦横に走っていると、小さい地名=字などにも、もっとたくさんのアイヌ語地名が現在残ってます。エミシの人たちの記録も文字ではありませんので、アイヌ人と雑居・交流していた時代が相当長くなければ、アイヌ人が北方に去って行ったにせよ、アイヌ語地名は残らなかったはずです。?http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13108753683本州のアイヌ語地名をあげてください。 本州に残るアイヌ語地名として思い浮かぶ...rumoicitizenさん本州のアイヌ語地名をあげてください。本州に残るアイヌ語地名として思い浮かぶのはどこでしょう?オタ、エトゥ、ナイ、ピ、ペ、タリ、ガル、スツ、ポロ、クッ、ワッカ、ヌイ、シリ、ペンケ、パンケ、カムイ、トマリ、ケシ、ピラ、ポリ、アッ、サシ、パラなどを語原とする地名が山奥などに沢山残っているように思えます。?http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E8%AA%9E本州島の地名本州島の地名については、アイヌ語が起源、あるいは(狭義の)アイヌ語と祖先を同じにする(「アイヌ語族」「縄文人の言語」と表現する人もいる)、という説が存在する地名である。青森県相内(あいない)、浅瀬石(あせいし)、赤保内(あかぼない)、荒熊内(あらくまない)、今別(いまべつ)、兎内(うさぎない、とない)、宇鉄(うてつ)、老部(おいっぺ)、大深内(おおふかない)、大別内(おおべつない)、奥内(おくない)、大沢内(おおざわない、おおさわない)、奥戸(おこっぺ)、遅毛内(おそけない)、尾太(おっぷ)、尾別(おっぺつ)、折腰内(おりこしない)、影津内(かげつない)、蟹田(かにた)、木内内(きないない)、木野部(きのっぷ)、切谷内(きりやない)、笹内、佐羽内(さばない)、小比内(さんぴない)、三内(さんない)、獅々内、下風呂(しもふろ)、尻労(しつかり)、車力村(しゃりき)、瀬辺地(せべち、せへじ)、千厩(せんまや)、田子(たっこ-まち、tapkop)、竜飛(龍飛、たっぴ)、田光(たっぴ)、蓼内(たでない、たてない)、丹内、鳥舌内(ちょうしたない)、十腰内(とこしない)、十枝内(としない)、飛内(とびない)、苫米地(とまべち)、豊間内(とよまない)、入内(にゅうない)[13]、野辺地(のべち、のへじ)、野内(のない)、原別(はらべつ)、平内(ひらない-まち)、洞内(ほらない)、三厩(みんまや)、目内(めない)、類家(るいけ)岩手県相去(あいさり)、浅内(あさない)、安家(あっか)、安比(あっぴ)、安庭(あにわ)、宇霊羅(うれいら、うれら)、伊保内、江刺(えさし)、江釣子(えづりこ)、越喜来(おきらい)、オショウナイ、女遊部(おなつぺ・おなっぺ、釜石市)、女遊戸(おなつぺ・おなっぺ、宮古市)、釜石 (? アイヌ語を知るということは、アイヌの心に触れるということ。そしてそれは、アイヌ語と祖先を共有するとも言われる日本語の心に気づくということでもあります。文化の多様性が注目される今だからこそ、知っておきたいお隣の言語、アイヌ語の世界をご紹介します! ではアイヌとはどんな人々を指すのでしょうか? アイヌとは、現在おもに北海道に住む先住民族のことです。本州以南に住む「和人」とは別の民族で、言語も日本語ではなくアイヌ語を話します。 北海道の地名は、その成り立ちによって「アイヌ語地名の音に漢字やカタカナを当てはめたもの(釧路、小樽など)」「アイヌ語地名の意味に合った漢字を使ったもの(滝川、浜中など)」「アイヌの人たちが呼んだ地名とは関係のないもの(函館、千歳など)」の3つに大きく分類できます。 アイヌ語(アイヌご、アイヌ語ラテン文字表記: Aynu itak、アイヌ語仮名表記: アイヌ・イタㇰ)は、日本列島関東以北に居住するアイヌ民族(アイヌ)の言語である。, 話者は、アイヌ民族の主たる居住地域である北海道、樺太、千島列島に分布していたが、現在ではアイヌの移住に伴い日本の他の地方(主に首都圏)にも拡散している。言語学では「孤立した言語」である。国際連合教育科学文化機関によって、2009年2月に「極めて深刻[4]」な消滅の危機にあると分類された、危機に瀕する言語である[5][6]。危険な状況にある日本の8言語のうち唯一最悪の「極めて深刻」に分類された[注 1]。, 地理的に近い位置で話され、古くから互いに経済的、文化的な交流があったにも関わらず、大和民族の日本語との間には、語彙の借用(例、女 menoko)を除いてそれほど共通点(例、皮 kap 〜 kapa)が見いだせない。アイヌ語の系統や語族に関しては、学術的に確実なことはいえない状況であり、孤立した言語である。, 北海道以北のアイヌの民には、強力な支配者や中央政府が存在しなかったため[注 2]、標準語・中央語のようなものは無く、地方によって多くの方言がある。, 現在アイヌ語を継承しているアイヌの数が極めて少ないため、アイヌ語は近いうちに消滅してしまう『消滅危機言語』の一つとなっている。2007年の推定では、約1万5000人のアイヌの中で、アイヌ語を流暢に話せる母語話者は10人しかいなかった[7]。さらに別の推定では、アイヌ語を母語とする人は、千島列島では既に消滅し、樺太でもおそらく消滅していて、残る北海道の母語話者も、平均年齢が既に80歳を越え、母語話者数も10人以下となっている[8]。アイヌ語の消滅危惧のレベルは「おそらく消滅した言語」と「消滅の危機に厳しくさらされる言語」の間の「消滅に近い言語」となっている。2009年(平成21年)、ユネスコにより「危機に瀕する言語」として、最高ランクの「極めて深刻」の区分に分類され、数年後には母語話者の死亡により消滅すると見られている[9]。, 1980年代以降、萱野茂らアイヌ語を残そうとするアイヌ自身の努力の結果、アイヌ語教室が各地に開設され、1981年には山本多助がアイヌ語小辞典を発行した。2007年現在、北海道内14箇所にアイヌ語教室が設置され、多くの人がアイヌ語を学んでいる。また関東地方にも、関東在住のアイヌまたは和人がアイヌ語を学ぶ集まりがいくつか存在する。1987年にはSTVラジオが「アイヌ語講座 イランカラプテ」(現在の「アイヌ語ラジオ講座」)の放送を開始し、2020年現在も放送中である。, 1986年には、田村すず子の教え子、北方言語研究会が上智大学学生などと共催で早稲田大学において第一回「アイヌ語祭」を開催し、和人による全編アイヌ語による演劇などがアイヌ民族や元北海道新聞社員でアイヌ語地名研究家などの前で披露された。, アイヌ文化振興財団主催のアイヌ語弁論大会(イタカンロー)には毎年多くの人が参加し、アイヌ語による弁論や、口承文芸の披露が行われている。, また、1990年代から、アイヌではない人の中にもアイヌ語を勉強しようとする人が増えてきている。アイヌ語の辞典も各種出版されている。特に東北地方では、アイヌとの歴史的連続性や地名研究の必要からアイヌ語への関心は伝統的に高い。, アイヌ語は「危機に瀕する言語」と呼ばれる言語の中では、例外的と言って良いほど、大量の録音資料が残されている言語である。オープンリールやカセットテープに記録され、現在まで残っているアイヌ語の音声資料は豊富である。しかし、その音声資料については、内容が不明なものも多く、調査は発展途上であるため、アイヌ語学習に使用できる資料は限られている。今後のアイヌ語学習には、この音声資料の活用が課題となっている[10]。, 2000年代になり、北海道教育大学旭川校等でアイヌ語を刷新する兆しがある。実際「アイヌ語旭川方言会話辞典」では現代に不足している語彙の補完が試験的に行われており、imeru(神が放つ光。転じて電気の意)からimeru inaw またはimeru pasuy(前者は固定電話で、後者は携帯電話の意。inawはイナウ、pasuyは箸を意味する。アイヌの信仰では、イナウや箸は神と人間との仲立ちをすると考えられていて、ネットの中とリアルを仲立ちする例えから)、imeru kampi(電子メール。kampiは紙、または手紙を意味する。)等の造語を作り、現代生活で不足している語彙を補完し、「現代の言語として」使える様にする努力が行われている。2008年7月4日に開催された「先住民族サミット」アイヌモシリ2008では、「アイヌ語を公用語とし、義務教育でも学べる言語とすること」を日本政府に提言[11]している。, 明治時代になってから、アイヌ語は科学的に研究されるようになったが、最初期には外国からのしかも言語学者ではない人々による研究が先行したのが特徴的である。たとえば東洋学者のアウグスト・プフィッツマイアー、ニコライ・ネフスキー, ロシアの医師であったミハイル・ドブロトウォルスキー(Михаил Михайлович Добротворский)、ポーランドの社会運動家で亡命者であったブロニスワフ・ピウスツキ、宣教師であったジョン・バチェラーなどがそれにあたる。, 日本の言語学者たちがアイヌ語を研究し始めた頃にはアイヌ語の話者は非常に少なかったが、先にあげた外国の研究者とはほとんど交渉を持たず、活発に研究されてきた。春採アイヌ学校の教師・伝道師の永久保秀二郎、金田一京助とその弟子である久保寺逸彦や、アイヌである知里幸恵・知里真志保姉弟らが挙げられる。, その後、田村すず子、萱野茂、浅井亨、村崎恭子、魚井一由、キーステン・レフシン、中川裕、切替英雄、佐藤知己、奥田統己、アンナ・ブガエワ等が それぞれ研究を進めてきた。, アイヌ語は漢字が伝わる前の日本語と同様、口承のみによって受け継がれてきた。アイヌの周辺には、日本、中国、ロシアなど、文字を持つ民族も多かったため、彼らと付き合いのあったアイヌの中には、文字を使える者もいたと考えられている。しかし、民族全体で文字を取り入れる動きは無かった[12]。, そのため文字による古い記録は、ヨーロッパ人や和人によって書かれたものが残されている。古くは17世紀初頭に松前を訪れた宣教師ジロラモ・デ・アンゼリスのラテン文字による記録が残されている。日本の史料としては平仮名でアイヌ語が記録された『松前ノ言』が最も古く寛永年間頃のものと推定されており、年代の明確なものとしては宝永元年(1704年)に蝦夷地を訪れた禅僧である正光空念の記録が古い。, 正徳2年(1712年)に刊行された『和漢三才図会』では、50ほどのアイヌ語の単語とその日本語訳が記されている[13]。蝦夷通詞(アイヌ語通訳)の上原熊次郎は、寛政4年(1792年)に刊行されたアイヌ語の辞書『もしほ草』(書名は蝦夷方言とも)の著者として知られており、自筆稿本である『蝦夷語集』(国立公文書館所蔵)や『蝦夷地名考並里程記』(東京国立博物館所蔵)が伝わっている。, アイヌ自身による記録は、大正時代からラテン文字などを用いて書かれるようになったといわれている。ピウスツキと親交があった千徳太郎治は、キリル文字によってアイヌ語を表記していた。, アイヌ語の音節はCV(C)(すなわち義務的な頭子音と義務的ではない末尾子音)からなり、子音群は少数しかない。, 子音は 「p」、「t」、「k」、「c」、「n」、「s」、「r」、「m」、「w」、「y」、「h」、「'」の12種が数えられる。無声音と有声音の区別は存在しない。, 日本語にはほとんど現れない閉音節が多く存在し、北海道方言では音節末にはc、h、' を除く任意の子音が立つことができる。いっぽう多来加を除く樺太の方言では音節末に立つ子音は限られ、音節末子音/m/は/n/との区別を失い、/k/, /t/, /p/, および/r/の一部は摩擦音化し/h/(xとも表記された)になる。例えば北海道のsések(「セセク」のように発音。「熱い」の意)は樺太ではsēseh(「セーセヘ」のように発音)となる。, u は、日本語の「ウ」と発音が異なり、日本語を母語とする者には「オ」のようにも聞こえることもある。そういったこともあり、かつてはaynuがアイノ、kamuyがカモイ、inawがイナオと書かれることが多かった。, sはシやスの摩擦音。方言によってはシャと発音されることもある。また、有声で発音されることはない。, 「'」は声門閉鎖音で、たとえばteetaで母音の連続を回避するために、はっきりと区切ってテエタと発音するときテとエの間に入る音である。, 音節tiは存在せず、tとiが結びつくと必ずciに変わる (kot + -ihi → kocihi)。, 音節wiはごく少数の擬音語・擬態語にしか現れない(siwiwatki風がビュウビュウ吹く。siw-iwは風の音を表す語根の反復)。, 音節yi、「wu」を「'i」、「'u」と別の音節として認めるか否かは研究者によって異なる(yairayke/yayirayke、aun/awun、ya(y)inkarpirkare