綺麗で可愛く、古風・和風でも古臭くない女の子の名前が人気です。子のつく名前や、実際に付けられている伝統的な名前など、計84選紹介します。人気ランキングtop10も! 古い印象を与え避けた方が良い女の子の名前も押さえおきましょう。 [43], ただし安楽死など道徳に関わる分野おいてはカトリックなどの宗教保守派の影響が大きい[44]。, 2歳から5歳までの就学前教育ののち、6歳から16歳までの10年間が無償の初等教育と前期中等教育期間となり、6歳から11歳までの5年間がエコール・プリメール(小学校)、その後4年間がコレージュ(中学校)となる。前期中等教育の後3年間のリセ(高等学校)による後期中等教育を経て高等教育への道が開ける。2003年の推計によると、15歳以上の国民の識字率は99%[45]である。コミュニケーションを重視した国語教育が、小学校での最重要の教育目標になってもいる。しかし、フランスの教育制度が民衆に等しく手厚いことを必ずしも意味しない。, リセ卒業時に行われるバカロレアに合格すれば任意の総合大学・単科大学へ入学できる。ただし、グランゼコールを含む一部のエリート大学はこの限りでない。代表的な高等教育機関としてはパリ大学(1211年)、モンペリエ大学(1289年)、エクス=マルセイユ大学(1609年)、ストラスブール大学(1631年)、リヨン大学(1809年)、パリ・カトリック大学、エコール・ノルマル、エコール・ポリテクニーク、パリ国立高等鉱業学校、エコール・サントラルなどが挙げられる。, フランスの公立学校では、10人に1人がいじめの被害にあっているとされ、いじめが大きな社会問題となっている。しかしフランスは、ほかのヨーロッパ諸国より、いじめ対策が遅れているとされる[46]。, フランス文学は、そのほんの一部をピックアップしただけでも、たとえば13世紀ころから宮廷風恋愛のテーマとしたアレゴリー詩『薔薇物語』、16世紀にはモラリストのモンテーニュによる哲学的な自伝『随想録』、17世紀にはラシーヌやモリエールの演劇作品、18世紀には啓蒙思想家のヴォルテール、ルソー、ディドロなどによる諸作品、19世紀にはロマン主義のスタンダール、バルザック、デュマ、ヴィクトル・ユーゴー、20世紀には実存主義のカミュやサルトル、人間心理を極めたプルースト、はたまた世界大戦下で「愛の意味」や「人生の意味」を語ったサン=テグジュペリ ...といった具合で、ここでは挙げきれないほどに豊穣であり、しかも思想的にも深みがあり、フランス文学は世界各国の文学の中でもトップレベルだと評価されており、フランス文学の奥深さは結果としてフランスにおける音楽や絵画の作家らにも影響を与え、それらの作品に深みを与えるのに貢献している。, またフランスは音楽、特にクラシック音楽も盛んである。特に19世紀末20世紀にかけての「フランス6人組」やフォーレ、ドビュッシー、ラヴェルらはフランス音楽を頂点にまで押し上げた。またフランスは、ポーランド人のショパン、ドイツ人のグルック、オッフェンバック、ジャコモ・マイアベーアがパリを拠点とするなど、多くの外国の才能が活躍する場を提供した。20世紀以降では情緒を巧みに歌い上げたシャンソンや、あるいは(イギリスやアメリカの音楽にも影響を受けた)フランス発のポピュラーミュージックも世界中で愛され(たとえばミシェル・ポルナレフなど)、しばしば世界中でヒットチャートの上位に上がった。, フランスの絵画は、数世紀の間欧州世界をリードする地位にあると言われており、たとえば19世紀には印象派、象徴派、ポスト印象派、ジャポニスムが隆盛を迎え、エドゥアール・マネ、クロード・モネ、ポール・セザンヌ、ポール・ゴーギャンらが活躍し、20世紀初頭にはフォーヴィスム(野獣派)、キュビスム、アール・ヌーヴォー、アール・デコが隆盛を迎え、ジョルジュ・ブラックやアンリ・マティスらが活躍し、現在も多くの諸外国の芸術家やクリエイターを引きつけ続けている。, またフランスでは「パン、フロマージュ(=チーズ)、ヴァン(=ワイン)」といった フランス人にとって日々の最も基本的な食品とみなされている3食品があり、これらは基本的な食材のみを用いてシンプルな加工でできているにもかかわらず それらだけでも(フランスの豊穣な大地や、実直な農業従事者たちや、その結果生まれた食材の素材的な良さのおかげもあって、また穀類、乳製品、そして果汁からできた酒、という旨みと酸味の絶妙な組み合わせや栄養バランスのおかげもあって)それだけでもすでに相当な美味であり、食べる人々に幸福をもたらしてくれる組み合わせである。さらにはフランスでは宮廷文化とその農産物の豊かさを背景にして食文化も発達してきた歴史があり、近・現代のシェフが趣向をこらし 磨きをかけた技で調理したフランス料理は、しばしば「世界の三大料理のひとつ」とされ、ガストロノミー(いわば「食通道」)も発達し、さらにミシュランガイドのおかげでパリだけでなくフランスの地方(田舎)にある優れた料理店にもスポットライトが当たるようになり、フランス国内だけでなく世界中の食通たちがフランスのシェフらの料理を目当てにフランス各地を訪れている。, 中世においては騎士道を歌い上げる叙事詩が文学の主流を担い、11世紀に『ローランの歌』が成立した。, 12世紀ころには騎士道物語が流行し、クレティアン・ド・トロワ(1135?-1190? Adrien. Avenue (アヴニュー): 並木のある大通り. 海外旅行先としても人気が高いフランス。世界遺産も数多くありその街並みや文化が素敵な国には美味しい食べ物も数多くあります。今回はそんなフランスのおすすめな食べ物や名物料理などをご紹介します。ぜひフランス旅行に行く際には参考にしてみてください。 フランス人の名前は色々ありますが、今回は女編!最近の人気はどんな名前でしょうか? いろいろな人種が住むパリ、フランスのデータですが、フランスの名前以外もベスト100にも入っていま … フランス映画祭の開催や「グッバイ・ゴダール!」など新作公開で、いままたフランス女優に注目が集まっています。美しいだけでなく、独特のニュアンスを持っていて、モード・アイコンでもある彼女たちは、いつの時代も日本のファンにとって特別な存在。 フランスではキリスト教徒が全国の6割以上を占めることからアメリカと同様に宗教に由来した名前が多く見られます。その女性の名前にはどんなものがあるでしょうか?フランスでよく見られる名前の意味や由来について詳しく見てみましょう。フランスで人気の女 昔は、フランス国内において、「ふさわしい名前」をつけていた人たちも、今は、世界に通用するような名前を考えているのでしょう。 親たちは、個性的でちょっと変わった名前だけど、いい名前を探している、というくだり、実によくわかります。 エメ. 通称、 フランス 。. フランスという国は西ヨーロッパに位置しており、その歴史はとても古いとされています。 そんなフランスの国名の由来や「フランス」とつくものの名前の由来についてまとめてみようと思います。 昔、鉄道に乗って色々なヨーロッパの国を旅した。 ヨーロッパと言っても、一言で片づける事は出来ない。 ヨーロッパ、eu圏は陸続きで50近くの国が国境を接して構成されている。 アメリカとeuは良く比 … フランス式に道の名前が住所になっていると、住所を聞いただけで場所が分かるのが便利ですが、 住所に道を使わない日本式だと、道の名前を昔のまま残すことができ、ドライブする人にとって楽というメリットがあるんですね。 「いろは」と聞くと、「いろはにほへとちりぬるを…」という「いろは歌」を連想する方が多いでしょう。「色」という漢字にはやわらかさ、「彩」という漢字には色彩豊かなイメージがありますね。 平仮名のままでも、女の子らしくやわらかい印象の名前になるでしょう。 rue de Clichy, 75009, PARIS であれば、パリ市クリッシー通り78番地 郵便番号75009 となります。 使えない名前リストがあっていいかもしれないけど、ちょっとフランスの場合は厳し過ぎる。日本では時代によって名前の傾向が変わるけど、フランスは未だに昔から使われている名前が人気だったりして国民性を感じる。 Adolphe. 昔よく世界史の歴史の授業でフランスの国王の名前についてルイ 世など何世だっけということがよくありました。 ところで、実際に歴史を見ると祖父、父、子と同じルイの名前が続き 世のみが1 q 昔のヨーロッパの国王の名前. 1.クラッシックなフランスの名前. 昔からある、クラッシックな名前があります。 ・abelアベル ・albanieアルバニ ・alexandraアレクサンドラ ・aliceアリス ・alinaアリナ ・almaアルバ フランスではすべての道に名前がついているので、地図をもっていれば探すのは簡単。ただし、通りを示す言葉にいくつかの種類があります。 Rue (リュー): 普通の通り. )により『イヴァンまたは獅子の騎士』『ランスロまたは荷車の騎士』『ペルスヴァルまたは聖杯の物語』などの物語が書かれ、その写本が流通した。(これは男性向けの作品であるが)、女性向けの作品としては、13世紀初頭から(100年弱の期間にわたり、ギヨーム・ド・ロリスおよびジャン・ド・マンによってアレゴリー(寓喩)を用いて、長詩の形式で、宮廷恋愛の一種の入門書の『薔薇物語』が書かれ、女性たちの間では大人気となったという。, ルネサンス期にはフランソワ・ラブレーが活躍し、『ガルガンチュワとパンタグリュエル』を著した。その後の絶対主義時代からフランス革命期にかけてマルキ・ド・サドなどが活躍した。, ミシェル・ド・モンテーニュの『エセー』(随想録)は哲学的な自伝の書であり、「自己」を知るだけでなく「人間そのもの」を知ろうとする姿勢はフランス文学のひとつの伝統となった。, 17世紀にはジャン・ラシーヌやモリエールが優れた演劇作品を書き、当時から劇場でさかんに上演されたわけであるが、特にモリエールの『町人貴族』などは、現代でも各国の劇団が、いわば「演劇作品の古典」として(ほぼそのまま、あるいは翻案して)上演することがある。ブレーズ・パスカルは、数学者・自然科学者でありながらも自身の秘めたる神秘体験から宗教的確信を深め、キリスト教を護教するために論陣を張り、キリスト教護教書とも言える書物をいくつも残したが、生前に刊行されず多数の断片からなる遺稿という形で残された『パンセ』は、自然哲学者やクリスチャンという立場を超え、その哲学的な深淵さによって 現代でも世界中の読者を魅了しつづけている。, 18世紀には啓蒙主義のヴォルテール、ジャン=ジャック・ルソー、ドゥニ・ディドロらが活躍し、ディドロやルソーらは『百科全書』の成立にも貢献した(その流れが現代のこのWikipediaにまで繋がっているわけである。), 19世紀には『赤と黒』のスタンダール、同一登場人物が何度も異なる小説に登場するという手法(この手法は研究者によって「人物再登場」と呼ばれている)を開発し、「人間喜劇」という名でくくられて呼ばれる膨大な小説群を残したオノレ・ド・バルザック、『レ・ミゼラブル』のヴィクトル・ユーゴー、『三銃士』や『モンテクリスト伯(岩窟王)』のアレクサンドル・デュマ・ペールなどが活躍した。『八十日間世界一周』、『海底二万里』で知られるジュール・ヴェルヌはサイエンス・フィクションの先駆者となった。1873年、アルフォンス・ドーデの『最後の授業』を含む短編集が出版され、フランス語の愛国教育が始まったことが知られている。[注 12][注 13][注 14], 20世紀には、マルセル・プルーストによって『失われた時を求めて』が書かれ、これは「20世紀を代表する大長編小説」とされている。一方でシュルレアリスムのアンドレ・ブルトン、ロベール・デスノス、ルネ・シャールなどが詩作品などを残した。アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリは、軍用機のパイロットとして勤務しつつ作家としてデビューし、『夜間飛行』(1931年刊)や『人間の土地』(1939年刊)などはベストセラーとなり今日でも読み継がれている。また『星の王子さま』は、一見したところでは「子供向け」という体裁を装いつつも、そこに提示された寓喩や風刺や人生の意味に関する洞察はとても深いものがあり大人の読者も魅了し、またサンテグジュペリ自身が描いた素朴な挿絵も好評で、世界各国でロングセラーとなり、『星の王子さま』は現在では、その翻訳された言語数(翻訳言語数)が「世界中の全ての書物の中で2位」(翻訳言語数トップの聖書に次ぐ、堂々の2位)という位置づけであり、文字通り世界中で、メジャーな言語話者だけでなく、相当なマイナーな言語の話者によっても読まれているのである。, 中世において神学者のピエール・アベラールは唯名論を唱え、スコラ学の基礎を築いた。のちにスコラ学はシチリア王国出身のトマス・アクィナスの『神学大全』によって大成された。一方正統カトリック信仰とは異なる立場で南フランスでは一時グノーシス主義の影響を受けたカタリ派が勢力を伸ばしたが、アルビジョワ十字軍によるフランス王権の拡張やカトリックによる弾圧によってカタリ派は15世紀までに滅んだ。, ルネサンス期にはミシェル・ド・モンテーニュが活躍し、『エセー』を著してその中でアメリカ大陸やアフリカの住民を擁護した。しかし、モンテーニュの非西欧世界への視線は非西欧を「文明」として捉えることはせず、のちのルソーに先んじて「高貴な野蛮人」として扱うに留まった。, 宗教改革や対抗宗教改革後の17世紀にはジャンセニスムやガリカニスムが隆盛を迎え、ブレーズ・パスカル、ジャック=ベニーニュ・ボシュエらが活躍し、それぞれの立場からカトリック信仰を擁護した。また、『方法序説』を著したルネ・デカルトによって近代哲学が成立した。, 18世紀には信仰よりも理性を重視する啓蒙思想が発達し、ジャン=ジャック・ルソー、シャルル・ド・モンテスキュー、ヴォルテール、フランソワ・ケネーらが活躍した。これらの思想家は清の儒教の影響などもあって、それまでのキリスト教会が担っていた神聖な権威よりも理性を重視する合理主義的な考察を進め、君主による絶対主義を否定するアメリカ独立革命やフランス革命の理論的支柱となった。しかし、同時に啓蒙主義によってもたらされた合理主義は植民地のサン=ドマングや、18世紀末から19世紀末にかけて啓蒙思想を理論的支柱として独立したアメリカ合衆国やラテンアメリカ諸国において、理性を持たない「半人間」という扱いをうけた黒人やアメリカ先住民(インディアン、インディオ)を、「より理性的な」白人が合理的に奴隷化し、収奪することを合法化する思想ともなった[47]。フランス革命中に活躍した平等主義者フランソワ・ノエル・バブーフは、その思想の先見性から共産主義の先駆者と位置づけられた。『人権宣言』の説く「人間」に、女性が含まれないことを指摘したオランプ・ド・グージュはフェミニズムの先駆者となった。, 啓蒙主義を理論的支柱としたフランス革命が一段落した19世紀前半にはアンリ・ド・サン=シモンやシャルル・フーリエによって社会主義思想が唱えられた。彼らの思想はのちにカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスによって空想的社会主義と呼ばれた。同じころ、オーギュスト・コントは実証主義を唱え、実証主義は19世紀後半のラテンアメリカ諸国の政治や文化(1889年のブラジルの共和制革命など)に大きな影響を与えた。資本主義経済の確立を唱えた実証主義は、ラテンアメリカにおいて、社会進化論などとともに国家が資本主義的な利用を図るために「野蛮」なインディオの共有地や解体し、半奴隷労働を強制することを理論的に支えた。19世紀半ばにピエール・ジョゼフ・プルードンは無政府主義(アナルキスム)を体系化し、無政府主義はミハイル・バクーニンによってマルクスとエンゲルスの史的唯物論(科学的社会主義)に対抗する社会主義思想となった。帝国主義の時代において、このような19世紀までの社会主義思想も含めた多くの社会思想は、マルクス主義者のポール・ルイ(ポール・レヴィ)や、哲学者のフェリシヤン・シャレのような数少ない例外を除いて植民地主義は「野蛮」な非西欧の「文明化」に奉仕するものだとして、真剣に植民地支配やその結果である収奪、暴力を批判する思想とはならなかった[48]。, 第一次世界大戦後の戦間期にはアンリ・ベルクソンやジョルジュ・ソレルらが活躍した。一方、植民地からはマルティニーク出身のエメ・セゼールやセネガル出身のレオポール・セダール・サンゴールが科学的人種主義によって不当に評価を低く見られていた黒人とアフリカ文明を再評価する、ネグリチュード運動が提唱された。, 第二次世界大戦後には実存主義哲学が隆盛を迎え、ジャン=ポール・サルトルやマルティニーク出身のフランツ・ファノンは反帝国主義の立場からアルジェリア戦争に反対するとともに、アルゼンチンの革命思想家チェ・ゲバラのゲバラ主義や毛沢東の毛沢東主義とともに植民地や第三世界におけるマルクス主義による革命闘争の理論的支柱となった。実存主義者のシモーヌ・ド・ボーヴォワールはフェミニズム運動を牽引した。1950年代から1960年代のフランスでは、知識人を中心に毛沢東主義が流行した。, 実存主義のあとには、1960年代からスイスの言語学者フェルディナン・ド・ソシュールや、人類学者クロード・レヴィ=ストロース、ヘーゲル学者アレクサンドル・コジェーヴによって構造主義が隆盛を迎え、ルイ・アルチュセール、ミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、ジル・ドゥルーズ、エマニュエル・レヴィナスなどが活躍した。オーストリアのジークムント・フロイトが大成した精神分析学は、20世紀後半にパリ・フロイト派を立ち上げたジャック・ラカンによって新たな段階に至った。構造主義のあとにはポスト構造主義が隆盛を迎えたが、1994年のソーカル事件により、構造主義やポスト構造主義の「知の欺瞞」が暴露され、衒学的な姿勢は厳しく批判された。ただし、このような限界がありながらも、未だにフランス初のポストモダニスムはアラン・バディウのようなフランス人のみならず、アメリカ合衆国のガヤトリ・チャクラヴォーティ・スピヴァク(デリダ派)やジュディス・バトラー(フーコー派)スロヴェニアのスラヴォイ・ジジェク(ラカン派)らに批判的に継承され、発展を続けているのも事実である。, 脱植民地化時代のマルティニークにおいてはセゼールやファノンの後継者であるエドゥアール・グリッサンの全世界論や、パトリック・シャモワゾー、ラファエル・コンフィアンらのクレオール主義が唱えられた。, 1990年代には、かつてチェ・ゲバラとともにボリビアでの革命運動に参加したレジス・ドブレによってメディオロジーが唱えられ、また毛沢東派のアラン・バディウが活動し続けるなど、ポストモダニスム以外の哲学のあり方も変化している。, 17世紀前半まではイタリアと並ぶ音楽大国として君臨し、オペラを中心に栄えたが、今日ではこの時期の作品はラモー、リュリなどを例外として演奏機会は多くない。その後、ウィーン古典派からロマン派にかけてドイツ圏の作曲家たちに押されて奮わなくなり、パリで活躍する作曲家もドイツ系が多くなった。その一人オッフェンバックの傘下からビゼーが出現するが短命で世を去り、その後パリ楽壇のボス的存在であったサン=サーンスはドイツ人ペンネームを使うなど[要出典]、一種の文化植民地状態に陥ってしまう。しかし、そのサン=サーンスを批判したフランク(彼もドイツ系ベルギー人ではあったが)が現れたころから独自のフランス音楽を模索する動きが高まり、19世紀末20世紀にかけての「フランス6人組」やフォーレ、ドビュッシー、ラヴェルらによって一つの頂点を築く。本来は音楽先進国であったため、これらの運動はいわゆる国民楽派には含まれないことが多いが、ドイツ楽派の桎梏を逃れる動きという点では呼応するものがあった。, ポピュラー音楽においては20世紀初頭から1950年代にかけてミュゼットや、いわゆるシャンソンとして知られる音楽が流行し、エディット・ピアフやイヴ・モンタン、シャルル・アズナヴールなどが活躍した。また、戦前はアルゼンチンのタンゴが流行し、アルゼンチンでは「パリのカナロ」などの楽曲が作られた。, また、ジャズが幅広く浸透しており、アメリカのジャズをもとに、独自の音楽性を発展させた形式に特徴がある。具体的には、Zeule と呼ばれる1つのジャンルにすらなっているマグマおよびその関係者であるディディエ・ロックウッドらの音楽がフランス国外でも広く知られている。, 1960年代から1970年代にはアメリカ合衆国やイギリスのロックの影響を受け、セルジュ・ゲンスブールやシルヴィ・バルタン、フランス・ギャル、ジョニー・アリディ、ミッシェル・ポルナレフ、ジュリアン・クレール、アラン・シャンフォー、ロック・バンドではアンジュ、マルタン・サーカス、ズー、テレフォンヌなどが活躍した。1980年代以降は、フランスの旧植民地から出稼ぎにやってきた人々や、活動の拠点を母国からフランスに移した音楽家も活躍し始め、セネガルのユッスー・ンドゥール、マリ共和国のサリフ・ケイタ、アルジェリア系のラシッド・タハやアマジーグ・カテブのような音楽家が活動している。1990年代にダフト・パンクが登場するとエレクトロニック・ダンス・ミュージックの産地としても一定の地位を占めるようになり、ダフト・パンクのほかデヴィッド・ゲッタやジャスティスなどが国際的な成功を収めている。, フランスは芸術の国として広くその名を知られており、国内、海外を問わず多くの芸術家がフランスで創作活動を行った。ファン・ゴッホやパブロ・ピカソ、ル・コルビュジエなどはフランスで創作活動を行った芸術家達のうちのごく一部である。, 18世紀末から19世紀初めにかけては新古典主義により古代ギリシア・古代ローマの文化の復興運動が進められ、フランス革命を描いたジャック=ルイ・ダヴィッドなどが活躍した。, 19世紀前半にはロマン主義や写実主義が隆盛を迎え、ウジェーヌ・ドラクロワやギュスターヴ・クールベらが活躍した。19世紀後半には印象派、象徴派、ポスト印象派、ジャポニスムが隆盛を迎え、エドゥアール・マネ、クロード・モネ、ポール・セザンヌ、ポール・ゴーギャンらが活躍した。20世紀初頭にはフォーヴィスム(野獣派)、キュビスム、アール・ヌーヴォー、アール・デコが隆盛を迎え、ジョルジュ・ブラックやアンリ・マティスらが活躍した。, 1918年に第一次世界大戦が終結し、それまで世界の中心的地位を占めていたヨーロッパが衰退すると、戦間期にはシュルレアリスムなどそれまでの西欧の美術様式に逆らった美術運動が発展した。, 第二次世界大戦後に冷戦構造の中でアメリカ合衆国が西側世界の中心となると、フランスの文化的な地位は相対的に低下したが、終戦直後から1950年代にかけてアンフォルメルや、1960年代に全盛を迎えたヌーヴォー・レアリスムなどでフランスの芸術運動はアメリカ合衆国と激しく主導権を争った。, フランスにおける芸術の中でも近年とりわけ重要視される文化は映画である。フランスで映画は、第七芸術と呼ばれるほど、深く尊敬を集め親しみある存在である。, 映画の歴史は1895年12月28日のリュミエール兄弟の上映によって始まり、20世紀初頭には文芸色の強い無声映画が多数作られた。毎年5月には南仏の都市カンヌにおいてカンヌ映画祭が開催され、世界中から優れた映画関係者が集まり華やかで盛大な催しが行なわれる。, 食文化の面では、王制時代の宮廷文化と豊かな農産物とを背景に発展したフランス料理が有名である(なお、フランスはヨーロッパでも最上位に位置する農業国である)。前菜やスープ類から始まってメイン料理を経てデセール(デザート)へと進むコース料理が発達し、テーブルマナーも洗練されたものとなった。宮廷文化のおかげで(貴婦人らや甘いもの好きの王などを満足させるために)ケーキなどの菓子文化も発達した。そして、上流階級のフランス料理のほかにも、地方ごとにさまざまな特色を持つ郷土料理が存在している。ブルターニュ地方のそば粉を用いたクレープガレット。(小麦と塩とイーストしか使わないのにとても美味しい)バゲット[注 15]、バタール、(バターがたっぷりで多層でサクサクの)クロワッサンなどのフランス独特のパンも世界中で知られている。 コンソメ、ヴィシソワーズ、ポタージュなどフランス発祥のスープも有名である。[注 16] 現代におけるフランス料理の形を確立させたのは、おもにアントナン・カレームとオーギュスト・エスコフィエの両名のシェフによる功績とされている。[注 17] 近年ではたとえば「トリュフのパイ包みのスープ」を考案したポール・ボキューズなど有名なシェフも多く自らが経営する料理店で世界中からやってくる食通たちを満足させているし、現在もフランス料理は進歩し続けている。フランスはチーズやワインの生産国としても名高く、AOC法によって厳格に品質管理されたフランスワインは世界中で高評価を得ている。また、ワインを蒸留したブランデーの生産も盛んで、特にコニャック地方で生産されるブランデーは品質のよさで知られ「コニャック」というブランドで呼ばれている。なおカフェ文化が育ったのもフランスであり、17世紀後半に生まれたフランスのカフェ文化は、現在まで広く世界中に根付いている。, ファッションの大衆化が進んだ19世紀以降、特に20世紀に入ってからはフランスのファッションブランドが世界を席巻しており、ユベール・ド・ジバンシィやイヴ・サンローラン、クリスチャン・ディオール、ココ・シャネルなどのファッションデザイナーによるオートクチュールやプレタポルテのほか、これらのファッションブランドが展開する香水やバッグなどが人気を博している。ほかにも、ルイ・ヴィトンやエルメスなどの旅行用品や馬具のブランドが衣類や靴、バッグ、小物、香水などのラインを出し世界中で人気を博している。また、パリコレクションが世界中のファッション雑誌やバイヤーからの注目を集めていることから、フランス以外の諸外国のファッションデザイナーの多くがコレクションへの参加を行っており、日本からもコム・デ・ギャルソン(川久保玲)やケンゾー(1999年まで高田賢三)、Yohji Yamamoto(山本耀司)などの多数のファッションブランドが毎年参加しているなど隆盛を極めている。, これらのファッションにおけるフランスの隆盛は、フランス文化を諸外国に広めるだけでなく、外貨獲得にも大きく貢献していることから、現在では業界そのものが政府による大きなバックアップを受けている。, フランス国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が35件、自然遺産が3件存在する。さらにスペインにまたがって1件の複合遺産が登録されている。, フランスの3大人気スポーツはサッカー、自転車、ラグビーである。またペタンクは、国民的なスポーツで、あらゆる年齢層で年中よく親しまれている。フランスでは各所に「ペタンク場」が作られている。ほかにもモータースポーツや、(海岸地域などで)セーリング(ヨット競技)や下記のスポーツが盛んである。, フランスで一番人気のスポーツとしては、サッカーが挙げられる。フランスはこれまでに、FIFAワールドカップ2大会とUEFA欧州選手権 (通称: EURO)2大会の開催国になった。1984年欧州選手権で優勝したフランス代表の流麗なサッカーは「シャンパン・フットボール」と形容された。2回目の自国開催となった1998年ワールドカップでは大会初優勝を遂げ、直後の2000年欧州選手権でも優勝を果たした。メンバーの多くを移民の末裔や海外県出身者が占める代表チームは、国民統合の象徴的な存在にもなった。ロシアで行われた2018 FIFAワールドカップでは20年ぶり2度目の優勝を成し遂げた。女子でもFIFA女子ワールドカップの第8回大会の開催国として2019年に開催される。, 国内の1部リーグにはリーグ・アンがある。バロンドール(欧州年間最優秀選手賞)を受賞したフランス人選手としては、レイモン・コパ、ミシェル・プラティニ、ジャン=ピエール・パパン、ジネディーヌ・ジダンなどが挙げられる。また、日本人選手ではオリンピック・マルセイユの酒井宏樹、RCストラスブールの川島永嗣がいる。, また、FIFA初代会長のロベール・ゲラン、ワールドカップ創設の功労者ジュール・リメ、欧州選手権の提唱者アンリ・ドロネー(Henri Delaunay)、ヨーロピアンカップの提唱者ガブリエル・アノ(Gabriel Hanot)、UEFAの会長となったプラティニなど、国際サッカーの発展において重要な役割を果たしたフランス人は数多い。その後、サッカー人口が増加した。, 世界最大で三大ツールの一つであるツール・ド・フランスが行われ、人気のスポーツである。ツール・ド・フランスの歴史は古く、1903年に第1回大会が行われて以来、二度の大戦によって1915年から1918年および、1940年から1946年の中断があるものの、2008年で95回を数える。しかし、近年ではフランス出身の選手はあまり活躍しておらず、1985年のベルナール・イノーを最後に総合優勝者は出ていない。その他フランスで行われる主な大会としては、パリ~ニース、パリ〜ルーベ、ドーフィネ・リベレ、ツール・ド・フランス、GP西フランス・プルエー、パリ~ツールがある。, フランスにおいてラグビーは富裕層と南部を中心に人気を誇っている。国内ではサッカーと人気を二分するスポーツである。欧州6か国 (グレートブリテン・アイルランド2島で4か国)で実施されるシックス・ネイションズ (6 Nations)のメンバーに連ねており、欧州においてもイギリス (イングランド・ウェールズなど)に次ぐ強豪国である。フランス代表のパスとランが続く流麗で華やかなプレースタイルはしばしば「シャンパン・ラグビー」などと評される。2007年にはワールドカップ (RWC)を自国開催したが、準決勝で南アに敗れ、初優勝はならなかった。フランス政府は全国9か所に、少年層から青年層までの有望選手が勉強しながら育成できる施設をつくっている。2023年にもRWCフランス大会が実施される予定。, ルノーやプジョーといった最古の量販車メーカーを抱えることもあって、自動車が実用化されだした20世紀初頭、1906年には世界初のグランプリレースがフランスで行われた。こうしてフランス国内では自動車レースが盛んに行われるようになり、フランスグランプリを開催している。ほかにも、1923年に初開催されたル・マン24時間レース、近年はフランス国内がコースに含まれなくなったが1979年初開催のパリ・ダカール・ラリーを主催する側として知られ、フランスからの参加者も多い。自動車会社としては、ルノー(ルノーF1)がF1、プジョー、シトロエンがおもにラリーで活躍しているほか、マトラ、リジェといった比較的小規模なメーカーもF1やル・マンで存在感を示している。多くのドライバーもモータースポーツ黎明期より数多く輩出しており、そのため優れた結果を残したドライバーも数多い。二輪車のフランススーパーバイク選手権 (fr:Championat de France Superbike)にも関心が集まる。, フランスは伝統的にはバスケットボールへの関心が低かった。が、ここ20年ほど、フランス国内に黒人系の移民が増えるにつれて徐々に関心が高まってきた。(ただし興味を持っているのは主に移民系の黒人たちで、フランスの主流の白人は、概して、バスケットボールに対しては関心は低い[独自研究? フランスが舞台の映画やフランスで作成されたフランス映画のおすすめ作品を古いものから新しいものまで集めてみました!フランスの美しい風景はもちろん、フランスならではのユーモアやロマンティックな作品まで、面白い映画ばかりです! フランス人の名前をつけるまではいかなくとも、世界の人が呼びやすい名前をつけたいと 思うかもしれません。 でもどんな名前が呼びやすくて、どんな名前が呼びにくいのでしょうか。 フランスのパン(日本ではいわゆるフランスパン)は小麦粉、パン酵母、食塩、水を使って作る。この生地を基本として各種成形方法の違いにより、各種製品毎に名前がついている。 Aimé. フランスと言えば、パリのイメージが強いですが、観光大国のフランスにはパリ以外にも見所が満載です!世界遺産だけじゃなく、自然も満載なんです。今回はフランスに行ったら是非とも行きたい観光スポットを21ヶ所ご紹介します。 フランスの地域についてのまとめ フランスの地域圏について(Régions) 日本語文献では 地方、もしくは州と呼んでいる地方行政区画です。2016年に再編が行われ、計22から18に変更となりました。ヨーロッパ内に13地域圏があり、海外地域圏が5つです。 フランスの歴史(Histoire de France)では、現在のフランス共和国の領土を構成する西ヨーロッパの領域の歴史を取り扱う。有史以前、古代ローマ支配、中世のフランク王国の建国と分裂、そしてフランス王国の成立と発展からフランス革命以降から現在の第5共和政に至る歴史である。, 旧石器時代にはクロマニョン人が居住した。彼らの遺跡であるラスコー洞窟は有名である。クロマニョン人はハプログループI2a (Y染色体)に属していた[1]。, 新石器時代には農耕の到来とともに巨石記念物の建造が盛んになされた。農耕と巨石文化をもたらしたのはハプログループG2a (Y染色体)と考えられる[2][3]。, 青銅器時代になると、ビーカー文化等が起こり、ケルト人が到達したと考えられる。彼らは現在のフランス人の多数派を占めるハプログループR1b (Y染色体)に属していた[4]。, 古代ローマにおいて、ほぼ現在のフランスにあたる地域はガリアと呼ばれており、ケルト人が居住していたと考えられる。このことは、紀元前58年から紀元前51年にかけてガリア遠征を行ったガイウス・ユリウス・カエサルによる「ガリア戦記」などからもうかがえる。こうしてローマの遠征を受けた後は、いくつかのローマ風都市も建てられ、ローマ化が進んでいった。, 4世紀後半より始まる本格的なゲルマン人の移動にともない、ゲルマン人の一派であるフランク人がガリアに定住した。481年にクローヴィスがフランク諸族を統一してメロヴィング朝フランク王国を建国すると、旧ローマ帝国領であるガリアの現住民がカトリックを信仰していたため、統治を円滑に行うことも狙ってカトリックを受容した。メロヴィング朝においては、徐々に宮宰を務めるカロリング家が台頭していき、8世紀前半の宮宰カール・マルテルは、イベリア半島からヨーロッパ進出を図っていたイスラーム勢力(ウマイヤ朝)をトゥール・ポワティエ間の戦いで撃破し、キリスト教世界の守護者としてその名声を高めた。, 当時、聖像禁止令などをめぐり東ローマ皇帝(ビザンツ皇帝)との対立を深めていたローマ教皇は、新たな政治的庇護者を必要としていた。こうした中、イスラーム勢力の侵入を撃退したフランク王国に教皇は着目し、フランク王国の実権をにぎるカロリング家との接近を図った。カール・マルテルの子ピピン3世(小ピピン)は、ローマ教皇の支持にも助けられて、カロリング朝フランク王国を創始した。この返礼として、北イタリアのラヴェンナ地方を教皇に寄進したことは、ローマ教皇領の起源となった。さらにその息子であるシャルルマーニュ(カール大帝)は、ザクセン人の討伐・イベリア半島への遠征、アヴァール人の撃退、ロンバルド王国の討伐などその名声を高め、800年にローマ教皇レオ3世からローマ皇帝の冠を受けた。シャルルマーニュは、エクス・ラ・シャペル(独語:アーヘン)の宮廷にブリタニアから学僧アルクィンを招き、古代ラテン語文献の振興(カロリング・ルネサンス)を推進するなど、文化的な西ヨーロッパ世界の統一にも寄与した。エクス・ラ・シャペルにおける学術的諸成果は、フランス各地の教会・修道院にも影響を及ぼしていった。, シャルルマーニュの息子ルイ1世(独語:ルートヴィヒ1世)には3人の息子がおり、843年のヴェルダン条約によってフランク王国の所領が三分割された。その後、870年のメルセン条約で領土の見直しが行われ、現在のフランス・ドイツ・イタリアの礎となる西フランク王国、東フランク王国、イタリア王国が成立した。この頃の西フランク王国は、北方からのノルマン人(ヴァイキング)の進出に苦慮しており、10世紀初頭にはノルマン人のロロにノルマンディーの地を封じた(ノルマンディー公国)。後にノルマンディー公がイングランドの王位に就いたことで、その後の英仏関係は様々な紛糾が引き起こされた。, カロリング家の断絶後、987年にパリ伯であったロベール家のユーグ・カペーがカペー朝を創始した。ノルマン人の討伐で活躍したユーグ・カペーだったが、その王権は東フランク王国(ドイツ王国)などと比べても脆弱で、パリ周辺のみにしかその王権は及ばなかった。13世紀ころより徐々に王権の強化が進み、イングランド王リチャード1世やジョン王と争ったフィリップ2世は、プランタジネット朝(イングランド王家)の領土であったノルマンディーやアンジューを奪った。また、この頃フランス南部で広まっていたアルビジョワ派が異端とされ、アルビジョワ十字軍が組織された。この異端撲滅闘争は仏王ルイ9世の時代までに完了し、結果としてフランス南部にまでフランス王権が伸張することになった。このように、総じて13世紀におけるフランス王権の強化は、ローマ教皇との連携を前提として進められたものであった。しかし、第6回十字軍・第7回十字軍を行ったことはフランス財政に重い負担を与えることになった。, 14世紀に入ると、フランス王と教皇の関係は対立へと転じる。財政難の打開を図った仏王フィリップ4世は、国内の聖職者への課税を図ってローマ教皇との対立を深めた。1302年、状況打開を求めたフィリップは、三部会(フランス初の身分制議会)を開催して、フランス国内の諸身分から支持を得た。その上で、翌1303年にアナーニ事件を引き起こしてローマ教皇ボニファティウス8世を一時幽閉するなど追い込んで憤死に至らしめた。その後、フランス人教皇のクレメンス5世を擁立させた上で、1309年に教皇庁をローマからアヴィニョンに移転(アヴィニョン捕囚、「教皇のバビロン捕囚」)させ、フランス王権の教皇に対する優位性を知らしめた。このことによって、のちの宗教改革の時代よりも早く、フランス教会はカトリックの枠内にありながらローマ教皇からの事実上の独立を成し遂げた(ガリカニスム)。このカペー朝の繁栄は続くかと思われたが、フィリップ4世の死後に3人の息子があいついで急逝し断絶へと至った。, なお、フランスの王位継承者は、サリカ法典により男系のカペー家の子孫のみが継承権を許されている。以降、フランス王家はヴァロワ家、ブルボン家へと受け継がれるが、これらの家系もカペー朝の傍系である。その意味においては、王政(フランス王国)がフランス革命によって打倒されるまで、カペー家の血筋が続いている。(1814年以降のブルボン家、オルレアン家を含めると、その血統はさらに続くことになる。), カペー本家の断絶を受けて、1328年にヴァロワ家のフィリップ6世がフランス王に即位した。しかし、フィリップ4世の孫にあたるイングランド王エドワード3世は、自らこそフランスの王位継承者であると主張し、両国の間で百年戦争が勃発した。当初は、長弓部隊などを導入したイングランドが優勢であり、クレシーの戦いやポワティエの戦いで勝利を収めていた。勢いに乗るイングランドの軍勢はパリを占領し、フランス王シャルル7世をオルレアンに追いつめた。しかし、ジャンヌ・ダルクの登場を契機として戦況は逆転へとむかい、最終的にはドーヴァー海峡に近いカレーを除く大陸領土をフランスが制圧して終わった。長期にわたる戦乱は封建諸侯の没落を招いたほか、戦争予算を工面する必要から官僚制の整備が図られ、王権の強化がさらに進んだ。, 15世紀末、シャルル8世はイタリアへの勢力拡大を図ってイタリア戦争を引き起こした。これに対してハプスブルク家も対抗して出兵したことが、18世紀半ばまで続くフランス王家(ヴァロワ家、ブルボン家)とハプスブルク家の間の対立の端緒となった。16世紀前半、神聖ローマ皇帝の座をねらったが叶わなかったフランソワ1世は、当時ハプスブルク家と対立していたオスマン帝国のスルタンスレイマン1世との連携まで行って、ハプスブルク家の皇帝カール5世と抗争を続けたが、結局はハプスブルク家優位のままイタリア戦争は終結した(カトー・カンブレジ条約)。16世紀後半になると、既にスイスのジュネーヴで高まっていたカルヴァン派の影響がフランス国内にも及び、ユグノー(カルヴァン派)の対立が深まり、30年以上にわたる内戦となったユグノー戦争が勃発した。1572年のサン・バルテルミの虐殺に見られるように、カトリック・プロテスタント両勢力の対立は先鋭化していき、ついに1589年にはフランス王アンリ3世がパリで暗殺され、ヴァロワ朝は断絶した。, 1589年、ユグノー戦争におけるカルヴァン派側の首領であったナヴァール王アンリが、フランス王アンリ4世として即位し、ブルボン朝が成立した。アンリは、カルヴァン派の立場を貫くことで政情が混乱することを懸念し、1593年にカトリックに改宗した。その上で、1598年には宗教的寛容を定めたナントの勅令を出し、個人の信仰の自由を認めて、30年以上にわたって続いたユグノー戦争を終わらせた。しかし、1610年に狂信的カトリック教徒の凶刃に倒れ死去した。, 次王ルイ13世は、宰相リシュリューの補佐のもとでさらに王権の強化を推し進めた。1615年からは三部会も開催されず、官僚制・常備軍の整備はさらに進んだ。1618年より中欧で起こった三十年戦争では、自国のカトリックという宗教的立場よりも国益を最優先として新教側を支援し、ブルボン家の勢力拡大を図った。1643年にルイ13世が死去したことで、まだ5歳だったルイ14世が即位したが、宰相のマザランがよく補佐した。1648年には三十年戦争の講和条約であるウェストファリア条約(独語:ヴェストファーレン条約)でアルザス地方とロレーヌの3都市を領土に加えた。同年に、これ以上の王権強化を懸念した貴族らによってフロンドの乱が起こったが、1653年までに鎮圧された。このフロンドの乱と同時期に、イングランドではピューリタン革命で王が処刑されているのと対照的である。, 1661年、ルイ14世を補佐していた宰相マザランが死去し、ルイ14世の親政が始まった。さらなるブルボン家の勢力拡大を図ったため、一層の財政充実がもとめられ、財務長官のコルベールがその任にあたった。彼は、休眠中であったフランス東インド会社を再建させ、王立特権マニュファクチュアを通じて国内産業の育成を図るなど、重商主義政策を推進した。一方で対外政策としては、ネーデルラント継承戦争に見られるように、相次いで領土拡大戦争を起こした(自然国境説という説明がなされることがあるが、当時の概念ではなく19世紀の歴史家による恣意的な解釈である)。, 当初、イングランドのステュアート朝(革命中に王族を保護していた)と友好的だったため、英仏の王朝的関係は良好(英議会とは不仲)であったが、ネーデルラント継承戦争のさなか、名誉革命によってオランダ総督・オラニエ公ウィレム3世がイングランド王ウィリアム3世として即位してしまったため、対英関係は完全に悪化した。, ライン川流域のプファルツに対して起こしたアウクスブルク同盟戦争(プファルツ継承戦争)でも、国際的な対ブルボン家包囲網が形成されるなど、覇権を追い求めるルイ14世はヨーロッパにおける外交的孤立を余儀なくされていった。スペイン・ハプスブルク家の断絶に乗じて起こしたスペイン継承戦争では、ユトレヒト条約でスペイン・ブルボン家の王位を承認させるという成果を得たものの、北米大陸でアカディア、ハドソン湾などの領土を喪失したことや、イギリスにスペイン・ブルボン家のアメリカ大陸領におけるアシエント権(奴隷貿易独占権)を認めるなど打撃も大きかった。, 長期にわたるイギリスとの抗争は、徐々に両国の経済的状況を反映して、フランスが劣勢に陥っていった。イギリスは既に名誉革命を成し遂げて立憲君主制に移行しており、議会が徴税権を確立している上、1694年に創設されたイングランド銀行が発行する英国債に対して国際金融センターであったアムステルダムなどから投資が集まっていた。また、市民革命の過程で特権団体であるギルドが解体しており、企業家の形成や工業化が生じる土台が形成されていた。このように、イギリスは長期的な植民地抗争に耐えられるだけの経済的基盤があった。一方のフランスでは、王権神授説を信奉するルイ14世によって1685年にナントの勅令が廃止され(フォンテーヌブロー勅令)、国内の富裕なカルヴァン派が国外に流出するという事態を招いた。奢侈の限りを尽くしたヴェルサイユ宮殿の建築、運営もフランス財政に重くのしかかった。また、聖職者・貴族といった特権階級が免税特権をいまだ有していた。戦争の長期化は、フランスを利することは決してなかったのである。, こうした中、イタリア戦争以来の反ハプスブルク家というフランス外交の基本方針を維持しつつ、北米大陸の植民地抗争も同時に継続するということは、極めて困難となっていた。当時、ハプスブルク家も対プロイセン抗争で劣勢に陥っており、両王家ともに関係改善を求めていた。かくして、18世紀半ばに両王家が対立から同盟へと転じる外交革命が起こった。しかし、アメリカ大陸におけるフレンチ・インディアン戦争や、インドにおけるカーナティック戦争、プラッシーの戦いなどにことごとく敗れ、1763年のパリ条約によって、アメリカ大陸・インドからの事実上全面撤退を余儀なくされた。長期にわたる対イギリス植民地抗争は、フランスに多大な負債と革命の種を残しただけであった。, ルイ14世期に確立されたとされる「絶対王政」は、聖職者・貴族・ギルドといったある種の利権団体(社団)との強固な結びつきのもとに成立していたもので、フランス人民1人1人にまで国家権力が及んでいたわけではなかった。18世紀になると、パリでは多くのカフェが営業され、カフェや個人的なサロンにおいて、勃興しつつあるブルジョワジーや自由主義貴族が新聞を片手に社会批判を行うようになっていた。このような、王権が及ばない「公共空間」で生まれた公論(世論)は、当時高まっていた啓蒙思想によって理論武装されていき、のちのフランス革命を擁護するような諸理論を育んでいった。こうした中において、国王ルイ16世は、王権の及ぶ範囲で改革を目指したが、自由主義擁護者と絶対主義擁護者の板挟みとなり、絶対王政は限界を迎える様になった。, 1789年-1794年。広義には1799年まで。ブルボン王朝及び貴族・聖職者による圧制に反発した民衆が1789年7月14日にバスティーユ牢獄を襲撃する。これを契機としてフランスの全土に騒乱が発生し、アンシャン・レジームは崩壊する。これらの動きを受け、国民議会は封建的特権の廃止を宣言し、8月26日にフランス人権宣言を採択した。しかし革命の波及を恐れるヨーロッパ各国の君主たちは革命に干渉し、これに反発した革命政府との間でフランス革命戦争が勃発する。, 1792年に8月10日事件で王政が廃止され、国民公会でルイ16世を処刑し、国民公会、総裁政府、総領政府に分かれた共和制の成立を宣言する。ジャコバン派のクーデターでジロンド派は公会から追放され、貴族や教会から没収した土地の再分配を行う。ロベスピエールは反革命派や王妃マリー・アントワネット、王党派のダントンらを処刑し、恐怖政治を行う。1794年にテルミドールのクーデターでロベスピエールが失脚し、民衆の手により処刑され、ジャコバン派は退行しテルミドール派の総裁政府が成立する。翌1795年、テルミドール派は失脚し、ポール・バラスによる政権が誕生する。このバラス政権は、比較的長期政権であったが、対外戦争は好転せず(エジプト遠征)、1799年、ブリュメールのクーデターによってナポレオン・ボナパルトが執政政府を樹立し独裁権を掌握した。, 1804年、ナポレオン1世が皇帝に即位。ナポレオンはアウステルリッツの戦い・トラファルガーの海戦・ロシア遠征など、欧州諸国に数々の戦争を仕掛けた。この一連の戦争をナポレオン戦争という。しかしナポレオンはライプツィヒの戦いに敗れ1814年に退位する。戦後処理のためにウィーン会議が開かれた。ウィーン会議は、欧州を1792年以前の状況に戻す正統主義が主な内容で、フランスにブルボン家が王として復位することになった。1815年、エルバ島から脱出し、パリに戻ったナポレオン1世が復位。しかしワーテルローの戦いで完敗。ナポレオン1世は再び退位した(百日天下)。, ナポレオン1世の失脚後、ルイ16世の弟であるルイ18世がフランス国王に即位した。ナポレオンが一旦エルバ島を脱出して復権すると亡命するが、ナポレオンの最終的失脚にともなって復位した。このブルボン家の復古は、ウィーン議定書で諸外国によって承認された。, 一般に保守反動体制とされるウィーン体制だが、かつてのアンシャン・レジームへ完全に回帰したわけではなかった。復古王政下では制限選挙による立憲君主政が採られ、法の下の平等・所有権の不可侵・出版や言論の自由などが認められていた。すなわち、身分制社会の枠組みは復活しなかった。しかし、1824年にルイ18世が死去すると、その弟のシャルル10世が即位し、亡命貴族への補償を行うなどさらに反動政治を推し進めた。王への反発が強まる中、アルジェリア出兵 (1830年)(英語版)で関心を対外関係に向けようとするが、高まる自由主義運動に対して抑圧を図ると、1830年に七月革命が勃発してシャルル10世は失脚した。この革命の中心は立憲君主派であったために共和政には移行せず、自由主義に理解を示すオルレアン家のルイ・フィリップが王として選ばれた。アルジェリア侵略の結果、フランス領アルジェリアとして1834年に併合され、1962年の独立まで占領が続いた。, 1830年7月、自由主義者として知られたオルレアン家のルイ・フィリップがフランス王となった。ここからの彼の治世を7月王政と称する。政治体制は立憲君主制が採られたが、極端な制限選挙により一部の大ブルジョワジーしか政治参加が認められなかった。フランス産業革命の勃興にともない形成された中小ブルジョワジーや労働者は選挙法改正運動を展開したが、政府がその抑圧を図ったことなどから二月革命が起こり、ルイ・フィリップは退位へ追い込まれた。この二月革命がヨーロッパ全体へと波及、1848年革命と総称される変動を引き起こすことになった。, 1848年の二月革命によって、ラマルティーヌが首班となり、アルベール、ルイ・ブランなどが入閣した臨時政府が成立する。この段階ではラマルティーヌを中心とするブルジョワ共和派と、ルイ・ブランなどに代表される社会主義者の連携が図られていた。しかし、国立作業場など諸政策をめぐって対立が深まり、1848年の4月総選挙において社会主義者が大敗したことを受けて、国立作業場が閉鎖された。これに反発したパリの労働者が六月蜂起が起こしたが、カヴェニャック将軍によって鎮圧された。, この一件は、これまで革命の担い手であったブルジョワジーに、社会主義革命への恐怖を抱かせた。それゆえに彼らはこれ以上の改革を求めずに保守化し、市民革命の時代は幕を閉じた。ブルジョワジーや農民の間には、政治的混迷を収拾しつつも市民革命の諸成果を守る強力な指導者が待望されるようになった。こうした中、新たに制定された第二共和政憲法に基づき、1848年12月の選挙で圧倒的支持のもとにルイ=ナポレオンが大統領に選ばれる。その後ルイ=ナポレオンは議会との対立を深め、1851年12月に国民投票により皇帝に即位する。, 皇帝に即位したナポレオン3世は、クリミア戦争・アロー戦争などあいつぐ外征の成功を通じて自らの威光を高めた。その一方で、ジョルジュ・オスマンに大規模なパリ市の改造計画を推進させたり、フランス各地を結ぶ鉄道網を整備するなど、大規模なインフラ整備を通じて工業化を推進した。この際に創出された雇用は失業者の救済にもつながった。その統治の前半は、言論・出版の自由が制限されるなど権威主義的な統治体制であったが、労働立法を通じて労働者の支持も勝ち取りつつ、工業化を推進させることで新興のブルジョワジーの期待にも応えた。こうして、フランス国民各層からの直接的な支持を基盤に、議会を牽制しつつ政治運営を行った。こうした統治方法には、のちの大衆民主主義にも通じる要素が見いだされる。, しかし、こうした彼の権力基盤は、華々しい成功を維持し続けることでしか支えることはできなかった。1860年代になると、アメリカ大陸への影響力強化を図ったメキシコ出兵の失敗でその威光を低下させた。1862年にはサイゴン条約でコーチシナ東部を獲得しベトナム進出を進めていくが、このことも彼の威光回復にまではつながらなかった。また、自由貿易体制をとったことで、イギリスからの工業製品流入にさらされ、国内産業が打撃を受けていた。こうした失政が続くと、議会をおさえて権威主義的な統治を行うことも難しくなり、議会との妥協を迫られることが多くなった。さらに、世論を自らの権力正当化の基盤としていたため、ビスマルクによるエムス電報事件で反独世論が高揚すると、対ドイツ開戦やむなしという状況に追い込まれた。この点で、かつて自らを支えた世論がみずからの首をしめる結果になったといえる。こうして1870年より普仏戦争が勃発したが、セダンで捕らえられ第二帝政は終わりを告げた。, 1875年の第三共和国憲法によって正式に第三共和政が発足した。普仏戦争の敗北にともなうアルザス=ロレーヌの喪失と、50億フランという高額な賠償金は、フランスの対独ナショナリズムを高揚させた。そのため、ブーランジェ事件やドレフュス事件を引き起こすことになった。また小党分立によって政権は頻繁に交代し、1875年から1940年の65年間に、87の内閣が成立している。, しかし、第二帝政期に急速にインフラが整備されたこともあり、工業化は順調に進展した。金融資本の形成も進み、広大な植民地やロシアなどへの投資を積極的に行った。, 外交的には、ドイツ・ビスマルクの巧みな外交政策によって孤立を余儀なくされたが、1887年にはアジアにフランス領インドシナ連邦を成立させた。しかし、1890年のビスマルク引退にともなってヨーロッパ外交の枠組みが大きく変化し、1891年(交渉終了は1894年)に成立した露仏同盟を皮切りに、各国と同盟関係を結んでいった。1895年にはフランス領西アフリカが成立した。, 1904年の英仏協商で妥協が成立した結果、フランスがモロッコにおける優越権を獲得したが、これに反対するドイツ帝国がタンジール事件を起こした。露仏同盟を基軸とする対独強硬策を主張していたテオフィル・デルカッセ外相は、日露戦争でロシア帝国が忙殺される間隙を突かれる形となり、6月になるとモーリス・ルーヴィエ(英語版)首相に解任され、1906年のアルヘシラス会議に解決がゆだねられた。会議でアルヘシラス議定書が調印され、フランスのモロッコ支配は現状維持とされた。, 1911年に再びドイツ帝国がアガディール事件を起こし、フランスは、フランス領コンゴ(フランス領赤道アフリカ構成植民地の一つ)に対する一部譲渡の要求を飲んだ(モロッコ事件)。, 1914年、第一次世界大戦が勃発するとフランスは連合国としてドイツと交戦した。マルヌ会戦においてドイツ軍のシュリーフェン・プランを粉砕したフランス軍は、その後長い塹壕戦に突入した。大戦中、戦場となったフランスの国土は荒廃した。1916年のヴェルダンの戦いでは、同盟軍の攻勢を防ぐことに成功したが、フランス軍の死傷者も甚大な数に上った。いつ終わるか知らない戦争に嫌気が差した兵士達の間では、士気が低下し、1917年のニヴェル攻勢における集団抗命に繋がる。しかし最終的にはドイツ軍を防ぎきり、ドイツ革命によるドイツ崩壊まで持ちこたえた。, 第一次世界大戦後の1919年のパリ講和会議ではドイツに対する強硬姿勢をとり、ヴェルサイユ条約を締結させた。また、日本の提出した人種差別撤廃案に賛成するなどの姿勢も示した。1920年に成立した国際連盟では常任理事国となった。またアルザス=ロレーヌをドイツから奪還したほか、旧ドイツ植民地、旧オスマン帝国領の一部を委任統治領として獲得した。シリアにはシリア・アラブ王国(英語版)が成立していたが、フランス・シリア戦争(英語版)で介入・占領し、フランス委任統治領シリアが成立している。, 戦債の支払や国土の荒廃もあって経済的は不安定となり、ドイツからの賠償金を厳しく取り立てるようになった。この動きの頂点が1923年のルール占領であったが、ドイツに大混乱とインフレをもたらしたのみで失敗に終わった。以降賠償金支払いプロセスにはアメリカが加わり、一定の安定を迎えた。しかし世界恐慌後は経済も混乱し、1936年からはフランス人民戦線と呼ばれる左派政権が成立した。以降も内閣は頻繁に交代し、政治的な安定期を迎えることはできなかった。, 1939年、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻すると、フランスはイギリスと協調してドイツに宣戦布告した。翌1940年にドイツは中立国であったベネルクス三国を経由してフランスに侵攻してフランス軍を打ち破り(ナチス・ドイツのフランス侵攻)、6月22日に独仏休戦協定が締結された。これにより、フランス北部はドイツ、南部の一部はイタリアによって占領されることになったが、名目的な主権は存続した。, フランス内部では戦争に敗れた共和政への忌避、反英感情が高まり、フィリップ・ペタンに対する個人崇拝と権威主義的志向が盛り上がった。7月10日、1940年7月10日の憲法的法律が可決され、ペタンによる権威主義的政権が成立した。これは首都の置かれた場所を取って、ヴィシー政権と呼ばれる。外見的には中立を保つ、合法的な主権国家であったが、国内の諸政策には強くドイツの意向が反映されるなど、事実上はドイツの傀儡政権であった。一方で国防次官シャルル・ド・ゴールはロンドンで、親連合国の組織「自由フランス」を組織した。自由フランスはドイツに対する抵抗を呼びかけたが、植民地の多くはヴィシー政権を支持した。一方でフランス領インドシナは仏印進駐によって日本軍の影響下に置かれることになる。, ドイツによる占領政策は苛酷であり、1942年以降にはフランス国内でもレジスタンス運動が高まるようになった。各地の植民地は次第に自由フランス側につくようになり、1942年11月8日のトーチ作戦によってフランス領北アフリカも喪失した。これによりドイツ軍はフランス全土を占領し、ヴィシー政権はほとんど名目的な存在となった。1944年6月には自由フランスと北アフリカのヴィシー軍が合同してフランス共和国臨時政府が成立し、ノルマンディー上陸作戦によってフランス本土には再び連合国軍が上陸した。6月22日にはパリの解放が行われ、ヴィシー政権は崩壊し、臨時政府はパリに帰還した。1944年中にフランスの大半は奪還され、1945年のドイツ降伏によってフランス全土は再びフランス政府の手に戻った。, フランスは国際連合安全保障理事会常任理事国という五大国の一つである地位を確保し、ドイツ占領に参加した。一方でドイツ協力者に対する粛清も行われた。, 臨時政府は制憲議会で憲法作成作業を行った。1946年10月に第四共和政憲法が成立し、1947年1月16日から第四共和政に移行した。多党分立で議会優先であったため内閣は短命で、政情は不安定だった。ドイツの収奪と戦禍により経済は疲弊しており、ドイツからの大幅な収奪を前提とするモネ・プランを計画していたが、アメリカなどの反対によって成立しなかった。変わってアメリカからマーシャル・プランによる支援を受ける一方で、冷戦勃発後は石炭鉄鋼共同体などヨーロッパ統合政策を開始している。, 一方で植民地支配には限界がおとずれ、中東およびアジアの植民地は次々に独立していった。インドシナでは1945年から1954年にかけて第一次インドシナ戦争が発生し、ジュネーヴ協定で撤兵した。, アルジェリア戦争に際して無力さを露呈した第四共和政は、1959年にシャルル・ド・ゴールを大統領に第五共和政へと移行した。第五共和政では議会下院の多数決によって選出される首相が置かれるものの、国民の直接選挙で選出される大統領に強い行政権限がある。1960年はアフリカ植民地の多くが独立(アフリカの年)したものの独立時に戦火を交えた一部の国を除いて良好な関係を保ち、元植民地の国に多額の援助を行った。同年には核兵器の開発に成功、さらに1964年には中華人民共和国を承認し、冷戦下では西側陣営でありつつも米国とは一定の距離を置く独自路線を貫いた。一方経済面では1961年に成立したヨーロッパ共同体において中心的な役割を果たし、1973年の第一次オイルショックまで高い経済成長率を維持した。この期間を栄光の30年間という。, 1966年の学生運動を発端とする五月危機は政界にも大きな影響を与えた。ド・ゴールは総選挙で圧勝することで事態を収拾したものの、翌年には大統領を引退することとなった。1981年の大統領選で社会党のフランソワ・ミッテランが当選し、フランス共産党との左派連合政権となる。以降の第五共和政下では保守派と革新派が大統領と首相を分け合う、コアビタシオン(保革共存)と呼ばれる状態がしばしば発生している。第5代大統領となった共和国連合のジャック・シラクは、イラク戦争では派兵を拒んだ。しかしニコラ・サルコジ政権(国民運動連合)では対米協調がおこなわれた。2012年からは社会党のフランソワ・オランドが大統領となり、2017年にエマニュエル・マクロンが大統領に就任した。, 各列内は五十音順。バチカンは国際連合非加盟。「その他」は国家の承認を得る国が少ない、または無い国であり、国際連合非加盟。国家承認を得た国連非加盟の国と地域の一覧・独立主張のある地域一覧も参照。, Eppie R. Jones, Gloria Gonzalez-Fortes, Sarah Connell, Veronika Siska, Anders Eriksson, Rui Martiniano, Russell L. McLaughlin, Marcos Gallego Llorente, Lara M. Cassidy, Cristina Gamba, Tengiz Meshveliani, Ofer Bar-Yosef, Werner Müller, Anna Belfer-Cohen, Zinovi Matskevich, Nino Jakeli, Thomas F. G. Higham, Mathias Currat, David Lordkipanidze, Michael Hofreiter et al.(2015), Upper Palaeolithic genomes reveal deep roots of modern Eurasians, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=フランスの歴史&oldid=80093557, 『フランス史 2 16世紀-19世紀なかば』 柴田三千雄、樺山紘一、福井憲彦編、山川出版社〈世界歴史大系〉、1996年7月。, 『フランス史 3 19世紀なかば-現在』 柴田三千雄、樺山紘一、福井憲彦編、山川出版社〈世界歴史大系〉、1995年6月。.